地方創生のヒントが、福井のめがねの創成期から見えてくる

 

福井はすっかり雪景色、「おしょりん」の季節です。

 

田んぼも畑も川も農道もすべてが雪で覆われ、その雪が硬く凍りつき、けっして割れたりしない状態を、この土地の人はおしょりんと呼ぶそうです。(最近は使われていない言葉なのかもしれませんが。)

 

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ちょうど大雪になったこの週末に、せっかくの機会なので前々からまとめたかったことを書きたいと思います。

 


現在、福井県のめがねフレーム生産量は日本全体の約95%を占め、世界最高品質として認められて世界中の高級ブランドなどからの生産委託(OEM)も受けています。

 


なぜ福井がそのような日本唯一・世界随一のめがね産地になったのか、それは今から110年以上前のある兄弟の想いと行動から始まっています。


増永五左衛門とその弟の幸八、二人は明治時代後期から懸命にめがねづくりに取り組みました。


その様子を小説として描いたのが「おしょりん」(ポプラ社・藤岡陽子 著)です。

 

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今朝あらためてこの「おしょりん」を読み直してみて、昨今声高に叫ばれている「地方創生」なるものを実現するのに必要な答えはこのおしょりんに、当時の五左衛門や幸八たちの想いと行動に詰まっていると感じました。

 


私には藤岡陽子さんのように読者の心に染み渡るような文章を書く力は無い上で、おしょりんとその他の当時の資料から見えてくる「地域産業・経済の活性化のために必要な条件」を7つ抽出し、まとめてみたいと思います。

 

 


条件1,想い ~ どうすればみんなが良くなるか

五左衛門が福井でめがねづくりを始めた理由は、「儲かりそう」などといった考えからではなく(もちろん結果的には儲からなければいけませんが)、「なんとかふるさと生野の暮らしをよくできないものか」という自分の村の人々を想う気持ちからでした。


もともと増永家は旧足羽郡麻生津村生野(現・福井市)で代々「庄屋」を務める旧家で、五左衛門も何不自由なく育ちました。

 

27歳のときには周りから推されて村会議員にも選出され、この小さな村をどうにか良くできないかという考えが離れなかったのかと思います。

 

というのも、当時この村は戸数が36戸、田畑は17ヘクタールで、冬になると雪に埋もれて農業もできない貧しい村だったのです。


実際、五左衛門の長男の妻は後に義父のことを
「身内が言うのもなんですが、父は村の方々の暮らしが少しでもよくなるのならと思ってめがね作りを手がけたといっていました。みんなが幸せに暮らせるようになるためには、家に閉じ込められる冬場に利益のあがる手内職が一番だと考えていたようです。」
と語っています。


また、五左衛門より10歳下の幸八は16歳のときから自ら東京へ出て、その後は大阪に移り、様々な仕事を手がけていました。そしてその後に織物やめがねづくりなどの案をわざわざ故郷に持ち帰り、実行のために熱心に兄を説得したという話からも、長男のような立場にはなかったものの「自分のふるさとを発展させたい」という強い想いがあったことが推測できます。

 


このように、村を、まちを想う強い気持ちがあることが、まちを発展・活性化させるための最も重要な原条件であることは間違いないかと思います。
「自分が儲かる」などといった次元の想いではないのです。

 

実際、五左衛門たちは自分たちだけであれば十分な蓄えをもって食っていくことに困らない状況だったにも関わらず、あえて私財を投げ打って村の継続発展のための賭けに出で、めがねづくりを始めたのです。


口だけの人ではなく、このような本物の想いをもち自らの全てを賭けて行動に移せる人物がいてこそ、地域の発展が起こりうるのではないでしょうか。

 

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条件2,状況 ~ 逃げ場のない苦境から

実は五左衛門はめがねづくりを始める当時、非常に苦しい状況に立たされています


まず背景として、明治6年(1873年)に明治政府が実施した「地租改正」により地主は政府に米ではなくお金で税(地価の数%)を支払わなければいけなくなります。

 

これは政府の税収を安定させる一方、農民からすれば豊作・凶作に関わらず一定のお金を払わなければいけないため、米価や収穫量次第では支払いが困難になります。つまり、安心の生活を確保するためには農業以外の貨幣獲得手段を得ることが必要になってきます。


そのような社会状況の中、明治31年(1898年)、大阪から帰省した幸八の勧めにのる形で五左衛門は当時盛んになっていた絹織物の工場をつくり、「福井羽二重」を手がけ始めました。最初はこの羽二重工場によって、農業だけが生業だった村の将来の安全を担保しようとしたのです。


しかし、そもそも明治30年代から日清戦争特需後の反動により日本経済が不況に見舞われており、さらに明治33年(1900年)、福井で2000戸以上を消失させた大火事(福井大火)があり、焼失などにより機屋は相次いで倒産し、そのあおりも受けて五左衛門の工場も閉鎖せざるをえなくなりました。


そして福井の村々からも徐々に、地元に職が無いため村を出て待遇や生活条件が悪かろうと東京や大阪に移っている人の話が聞こえてくるようになります。(近年の地方の状況と同じですね。)


このような、事業の失敗により財産の多くを失い、かつ、そのまま待っていても村の衰退は目に見えている状況の中で、五左衛門と幸八は村に産業を作るべく危険を承知でゼロからめがねづくりに挑むのです。

 

 

ここからわかるのは、新しい活気ある地場産業はすでに満たされた人たちからではなく大きな困難に直面している人たちから生まれるだろうということです。


それはある意味当たり前のことかもしれませんが、違う言い方をすれば、もし今全国の多くの地方が同様の困難に直面しているのならば、それは先人たちも通ってきた道と捉え、苦しくても新しい産業への挑戦や現在の産業の改革などに挑むよりほかは無いということです。

 

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条件3,誇り ~ 真摯な姿勢と妥協なき追求を

五左衛門たちのめがねづくりは、本当にゼロから始まります。

 

福井のどこにもめがねづくりの技術など無いところから、明治38年(1905年)にまずは大阪の知人に頼み込んでめがね職人を福井に引っ張ってきます。これが福井のめがねづくりの始まりです。

 

そして死に物狂いで技術を習得し、なんとその職人とは3年契約だったにも関わらずわずか半年で技術をほとんど習得してしまいます。この最初に習っためがね枠は真鍮(しんちゅう)という銅と亜鉛の合金を素材としており、巷では比較的安価なもので取引されていました。

 

ここで五左衛門たちは、作れるようになった真鍮のめがねをたくさん作って売り込んでいくのではなく、より高品質で高値もつく赤銅(しゃくどう・銅と金の合金)のめがねづくりに挑戦し始めました。新たに赤銅めがねを作れる職人を引っ張ってきて、驚異的な早さで技術を習得していったそうです。

 

そしてなんと、当初は東京で作られためがねこそ良いものであり高級品と言われていた状況から、明治44年(1911年)に内国共産品博覧会で1650点もの応募の中から上位5点のみに与えられる有功一等賞金牌を獲得したのです。


ここに至る過程においては、後述する「帳場制」などの制度的取り組みもありましたが、根本には「他から馬鹿にされることのない、最高のものをふるさと生野でつくる」という誇りがありました。

 

それ故に、作っためがねを何度となく大阪などのめがね取り扱い店に持っていき、当初はそもそもほとんど受け取ってもらえなかったり、受け取ってもらえたとしても製品に対して大量の付箋(修正点の指摘が書かれている)がついて返品されてくる中で、それらを一つ一つ修正していって品質の向上を追求したのです。

 

このように単に傲りとしての誇りではなく、真摯に素直に相手に耳を傾けて改善を重ねていきました。また、単なる東京や大阪のめがねの真似をするわけでなく、自分たちが誇りを持てるより良いものを求め続けたのです。その結果が内国共産品博覧会の結果でした。

 

こうして、自分の地域に真の誇りをつくっていったのです。

 

 

私は、このような姿勢から新しい活気ある産業が生まれると思います。人真似ではなく、自分たちが最高のものを作るんだという想いであり誇りを持つ人たちが何かに真摯に取り組んでこそ、一時的なものでなく長期に渡る地域経済を支える産業が築かれるのだと思います。

 

 


条件4,調和 ~ 内と外、慎重さと大胆さ

五左衛門と幸八、この二人の性格は真反対だったそうです。

 

五左衛門は熟慮断行型で、増永家の当主であり村の屋台骨ということからも軽率な物事の判断はせず、慎重に、大きな責任感をもって物事を判断し、腰を据えて物事に取り組んでいったそうです。

 

一方で幸八は、16歳の頃から単身大阪に飛び込み様々な事業に取り組んだり、最初は大阪で織物を思いつき兄に強く勧めて実行させて、次はめがねづくりを思いつき同じく兄に強く勧めて実行させたりと、非常に自由奔放、大胆で、先見性を持ち、大阪を中心に交遊関係も手広く持っていたそうです。

 

そしてこのような二人だったからこそ、福井のめがねづくりという産業としての成功を成し遂げることができたと言えます。


幸八が外から面白いもの、新しい考えを見つけてきては、五左衛門がそれを冷静に判断し、責任をもって継続的に実行していく。

 

幸八が外で各方面に広くめがねを売り歩き、五左衛門が福井内で必要な資金繰りをしながら工場に問題が起きないようにどっしりと座って管理しておく。

 

このような役割分担が見てとれます。


要は調和(バランス)です。どちらに偏ってもうまくいかない、その絶妙な調和が増永兄弟の間にあったのです。

 


翻ってみて、現在の各地域で取り組まれている地域活性化活動はどうでしょうか。新しくて面白いアイデアを、熟慮することなく打ち上げ花火のようにとりあえずお金を使って勢いだけでやってみて、その後のことは誰も責任をもたないというようなことにはなっていないでしょうか。はたまた逆に、新しい考え方を受け入れることを完全拒否して何も改革の無い状況にはなっていないでしょうか。


要は調和です。自然にこの調和が保たれれば問題はありませんが、そうでないならこの絶妙な調和を忘れることなく意識しなければ、無責任な行動や取り組みがその地域を疲弊させるか、何もしないことでその地域を衰退させるかのどちらかです。

 

 


条件5,仲間 ~ 一蓮托生の友

五左衛門と幸八には、想いを同じくする一蓮托生の仲間がいました。五左衛門たちが必死に口説き落としてめがねづくりに取り組んでもらうことになった職人たちです。

 

例えばそのうちの一人であり発足当初からの仲間である増永末吉は腕の良い大工として評判でしたが、大工仕事を捨てて福井で最初のめがねづくり職人となりました。

 

他の仲間たちも同様に、海のものとも山のものともわからないめがねづくりに自分の一生を託したのです。それは彼らの働き方にも表れていて、彼らは「徒弟奉公」として非常に厳しい働き方をしました。

 

今からではとても考えられませんが、朝7時から夜7時までめがねづくりに励み、お昼休みは30分間、休日は毎月15日だけで、その他は正月とお盆、および祭日のうちの年2回だけしか休めなかったそうです。

 

さらに奉公には3種類あり、通勤するものは3年、住み込みは5年(食事も支給される)の契約で、途中で辞める場合には「掟」に定めてある損害金を払わなければいけませんでした。つまり、この仲間たちは半端な覚悟で加わってきた人たちではなかったのです。


これはもちろん五左衛門たちの熱い想いがあったからこそではありますが、このような厳しい状況かつ未だ不確実な職であることを承知で運命をともにする仲間を作ってめがねづくりに挑んだからこそ、福井でめがねづくりが花開いたのです。

 

五左衛門たちは当初から「とりあえず自分たちで作って始めてみる」ということではなく、仲間の重要性をわかっていたのかもしれません。このような仲間がいたからこそ、五左衛門や幸八は自分たちの役割に集中することができたのです。

 

 

現代の地域づくりにおいても、言うまでもなくこれは重要なことでしょう。本当の意味で地域を良くするには、生半可な意味の仲間ではなく、本気の、文字通り一蓮托生の仲間をどれだけ作れるかが成否を左右します。

 

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条件6,競争 ~ 切磋琢磨

五左衛門たちの工場は、単に仲間意識だけでめがねづくりを行なっていませんでした。それがよく表れている制度が「帳場制」です。

 

帳場制とは、親方(リーダー)を数人立て、その各親方の下に職人や徒弟(メンバー)を複数人置き、そのそれぞれの帳場(グループ)が親方の指導のもとでめがねづくりに取り組むというものです。そして各帳場はその出来高に応じて手間賃をもらえるので、各帳場ごとに製造技術を競い工夫するようになりました。


さらに、定期的に工場二階で「品評会」を開いて各帳場が腕を奮っためがねを並べて比べ合い、他の帳場のものまねなどせず各自の技、製品を競い合いました。


このような競争の風潮の中で脱落する仲間もあったそうです。しかしこのような取り組みから、工場内の仲間でも単なる馴れ合いの仲間としてではなく競い合う相手として自然と切磋琢磨し、結果的に福井のめがねの品質を飛躍的に高めて新製品も生み出していったそうです。

 

 

地域の産業を活性化させる上で、このような競争の文化をつくることは非常に重要だと思います。潰し合う相手ではなく、互いを高め合う相手です。


各種の地域創生の取り組みは、ある種の公的性質ゆえにともすれば単なる自己満足的結果に終わってしまってしまうかもしれません。ですが、本当に地域を潤す経済的成果を出せる取り組みにまでしようとするならば、五左衛門たちが行なったように厳しい競争の要素を取り入れなければいけないのでしょう。

 

 


条件7,教育 ~ 仕事は人、人は教育

五左衛門は村の准教員の経験をもっていました。その経験からか、「仕事は人である。人を作るには教育。」という信念を持ち、工場二階に一日おきに夜間学校を開いて仕事後の午後8時ごろから二時間ほど、先生を招き徒弟たちに勉学の機会を与えていました。そのおかげで徒弟たちは高等科終了程度の学力を身につけることができたといいます。


このようなめがねづくりの技術向上とは全く関係のない取り組みから、五左衛門は人を単なる従業員として見ていたわけではなく、その人の人生そのものに大きな責任を持ち、できる限りのことをしてあげたかったのだと思います。

 

その後多くの職人たちが五左衛門のもとから円満に独立していくことができたのも、職人たちを自分の会社の利益を作る資源として見ていたのではなくそれぞれの人生の幸せを願っていたからこそなのだと思います。


そしてそこで育った人材たちが福井のめがね産地の屋台骨になっていったからこそ、今日めがね産業が地域を支えるまでになったのです。

 

 

一会社、一事業の繁栄を考えるのであれば、もしかすれば人は「使うもの」として効率よく扱っていけばよいのかもしれません。

 

しかし、もし地域全体の繁栄を考えるのであれば、そこにその人のその先を見据えた教育は間違いなく必須でしょう。あくまでそれはその会社や事業のための教育ではありません、「その人自身のための教育」です。


地方創生を望むにあたって、それを支えるのは最終的には様々な「人」です。明日や一年後に結果が見えてくるものではありませんが、その人にとっていつか役に立ち、そしてそれがまた地域全体を支える力になるものとして、人を大切に育てる仕組みや機会を各種取り組みの中で意識的に作っていくべきでしょう。

 

 

 

 


以上、長くなりましたが7点、あらためてまとめると以下です。


1,想い ~ どうすればみんなが良くなるか
2,状況 ~ 逃げ場のない苦境から
3,誇り ~ 真摯な姿勢と妥協なき追求を
4,調和 ~ 内と外、慎重さと大胆さ
5,仲間 ~ 一蓮托生の友
6,競争 ~ 切磋琢磨
7,教育 ~ 仕事は人、人は教育


皆さんの地方創生活動に上記7つはありますか?欠けているものはありませんか?

 

もちろん、上記7つが必ずしも正解、必要十分条件であるかはわかりません。
しかし、五左衛門と幸八がこのめがね産地をつくり「地域を創生」した一つの事例として、上記7つの要素があったことは間違いありません。

 

 

さて、そのような五左衛門や幸八たち先人が築きあげてくれたこのめがね産地は、現在大きな危機を迎えています。

※参照

mitsuru326w.hatenablog.com

 


私自身、上記7つを常に忘れることなく、産地のためにできることを実行していきたいと思います。

 


ちなみにめがね産地のことが気になってきた方はぜひこちらのサイトを参照ください。

www.japanglasses.jp



 

 

福井で雪を見ながら、おしょりんを読みながら、五左衛門と幸八が立ち上げた「増永眼鏡」のめがねをかけながら、そんなことを考えている週末でした。

 

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皆さんもぜひ、生の地域おこしが詰まった小説「おしょりん」を読んでみたらいかがでしょうか。
そのような意味を抜きにしても、ふと涙が出てくる心に染み渡る小説です。

 

おしょりん(amazon)

 

 


<おしょりん以外の参考文献>
福井県眼鏡史(非売品・大坪指方 著)
・めがねと福井 産地100年の歩み(福井新聞社・土岡秀一 監修)